仰木彬氏のプロ野球人生は西鉄ライオンズから始まる

近鉄バファローズ オリックスブルーウェーブ・バファローズの監督を務めた

仰木彬氏のプロ野球人生における野球観は

西鉄ライオンズ時代に磨かれたものかもしれない・・・


近鉄とオリックスを率いた“マジシャン”仰木彬の現役時代/プロ野球20世紀・不屈の物語【1954~67年】

6/5(金) 11:05配信


少しプロ入り前にさかのぼってみたい。九州の筑豊地方に生まれたが、父は太平洋戦争で戦死、2人の妹も戦後、栄養失調が原因で病死した。東筑高には自宅から4キロの道のりを走って通い、1年から遊撃手、3年でエースに。四番打者も務めて甲子園に出場したが、初戦で敗退している。南海や中日も挨拶に来たが、平和台球場で西鉄の三原脩監督に会うと、すぐに入団を決めた。南海や中日の提示した契約金は100万円だったが、西鉄は60万円だったという。結果的に地元チームへの入団となったが、ここから20世紀のプロ野球を彩る伝説が始まっていく。

 三原監督も、その采配を“魔術”と評された知将。投手として入団した仰木に、キャンプ10日で二塁手への転向を指示する。俊敏性と野球センスが評価されたのもあったが、投手としては球筋が素直すぎたのだ。連日の猛ノックが始まる。気絶するとバケツで水をかけられた。ノックする三原監督に、返球を思い切り投げつけたこともあったという。それでも、1年目の54年から正二塁手となり、101試合に出場して初優勝に貢献。翌55年には規定打席にも到達し、5月22日のトンボ戦(松江)ではゲーム6安打のプロ野球新記録もあった。西鉄は続く56年に2度目のリーグ優勝を果たすと、日本シリーズで巨人を撃破、そのまま3年連続で日本一に輝いて、黄金時代を謳歌する。西鉄の二塁には、常に仰木の姿があった。

 西鉄の黄金時代について、詳しくは別の機会に譲るが、“野武士”と呼ばれた豪快な選手たちを操る三原監督の“魔術”が最大の魅力。荒々しい男たちの中で、甘いマスクに細身という仰木の存在は異色だった。二塁守備も頭脳的で、豊田泰光との二遊間は絶品と言われたが、負けん気の強さはチーム屈指。私生活も豪快で、遊びの合間に野球があるような生活だったという。なかなかの遊び人だったわけだが、そんな男が、ついに本気を出す。

59年オフに三原監督が退任。迎えた60年はチーム打撃に徹して、リーグ最多の15犠打に加え、初めてシーズン100安打をクリアする。だが、62年オフに豊田のトレードマネーでロイ、バーマ、ウイルソンの“助っ人三銃士”が加入すると、その後は徐々に出場機会が減っていく。67年に4試合の出場に終わり、現役を引退した。

 野球よりも遊びがメーンだった時期、三原監督から朝10時に呼び出され、1時間ほど説教され、これが1年間、毎日のように続いたことがあった。「野球だけでなく、人間の組織、集団の話など、いろいろしていただいた。ひょっとしたら将来、指導者を考えてくれてたのかもしれない」と、のちに仰木は振り返っている。引退して2年間は西鉄でコーチを務めていたが、70年に三原監督の率いる近鉄へ招かれ、まずは守備走塁コーチに。三原監督は1年で退任したが、74年に西本幸雄監督となって近鉄は強くなり、80年には西本監督から「次は仰木に」という話もあったという。近鉄の監督となったのは指導者となって21年目の88年だ。

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